JAPAN WRITING INSTRUMENT MANUFACTURERS ASSOCIATION
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   ◆ 年末講演会・懇親会2023 ◆

日本筆記具工業会

2023 年末講演会・懇親会 盛大に開催
講演テーマ“挑戦が未来を切り拓く”
   
   本年が第21回となります年末の講演会・懇親会が2023年11月30日(木曜日)に上野精養軒で開催されました。お忙しい中、約60名の多くの方にお集まりいただき、楽しいひと時を過ごしました。
   第1部の講演会では、カーレーサーから日産の社外取締役に転身された井原慶子さんの「挑戦が未来を切り拓く」というテーマでのお話をお聞きしました。   
 
日産の社外取締役井原慶子さん  
【講演録】
     井原慶子です。私は1973年生まれなのでちょうど今年50才です。普通のサラリーマン家庭に育ちましたので、大学に入った後は自立するために大学1年の夏からモデル事務所に所属してモデルやキャンペーンガールのアルバイトをしておりました。他のバイトよりかなり割が良かったのです。でも、ただ所属してるだけではお金にならないのでいろいろなオーディションを受けて回りました。最初はどれもすぐ落ちてしまいました。落ちたもの同士、帰りがけにカフェで愚痴を言い合っていましたが、そのうち皆で合格した人がなぜ合格したのかを分析することにしました。その結果、顔やスタイルだけではなく、そのオーディションではどのような人が求められるかを考えて、しぐさやしゃべり方、笑顔を作る時の口角のあげる角度、自分を最高にかわいく見せる角度など十分に研究、準備していくことが大変大事であることがわかりました。
   そこで私も十分に準備をすることによって、その後はほぼ最終選考まで、毎回通るようになりました。これでも、その頃は女優の米倉涼子さんや東大出の菊川怜さんとよくオーディション会場で張り合っていたんですよ。    モデルの仕事の一環としてある時、カーレースのレースクイーンの仕事をしました。最初はハイレグの水着とハイヒールを見て、私にできるかしらと戸惑いましたが、毒食わば皿までで、えいとばかりに挑戦しました。
   ここだけの話、私はこれでもレースクイーン1番の名誉である「ミス・ベネトン」に選ばれたこともあるんですよ。パラソルを差して笑っているだけの仕事でしたが、その脇では、鋭い視線のレーサーと必死にネジを回すメカニックがいました。
   私は毎回彼らの仕事ぶりをみて、私も人生で頭と体の能力を全部使って必死に限界に挑む仕事がしたいなあと思いました。そして私もカーレーサーになりたい、絶対になると思ったのでした。 私は昔から怠け者だったので、あえて自分をそういう厳しくて頑張らざるを得ない状況(自分より高いレベル)に飛び込んでいくようにしていました。そうしないと何もしないからです。恥ずかしさや緊張をばねに自分の限界を広げていこうと常に考えていました。今考えるとそういう性格はレーサーに向いていたと思います。
   でも、カーレーサーになりたいと思った時に、私は何と運転免許は持っていませんでした。私はすぐ翌日に教習所に行きました。最初はアクセルもブレーキも分かりませんでしたので、知ってて当然と思っている教官との喧嘩から始まりました。無事免許を取った後、カーレーサーになるにはどうしたらいいかを、ちょうど車のモデルの仕事があったので車雑誌の専門家に聞いてみました。
   そうすると、日産が今度セーフティドライビングスクールを作るのでそこのインストラクターを募集している。その採用試験をやるから受けてみればと言われました。まだあまり運転したことが無いんですけど、と言ったところ、何でも挑戦だよと言われました。私はその試験を受けることにしました。試験はドリフトで8の字に旋回する試験など難しいもので、私は一つ一つ試験官からやり方を教えてもらいながらやってみました。車が何度もスピンしてしまい、そのたびに謝っていました。
   でも、なんと、私は合格したのです。間違ってしまった時しっかり謝ったことと、まだ素人だったので運転が素直だったからという理由でした。アルバイトのモデルの時の体験が生きたようです。    インストラクターになった後は、毎日仕事が終わった後に、そのコースで何時間も車を運転していました(今では許されないですよね)。いろんな車を運転して、わからないところはそこのエンジニアにとことん聞きました。そうするとエンジニアもわかりやすく細かいところまで教えてくれました。
   あのカーレースのサーキットのエンジニアと同じだなあと思いました。この時の、エンジンの仕組みやサスペンションなど車の成り立ちを理論的に詳しく教わったことが、その後カーレーサーになった時どんなに役に立ったかわかりません。    私はカーレーサーになる夢をかなえるべく、まずお金を貯めました。親は1円も出してくれませんので、いろんな仕事を掛け持ちして、5年で1千万円を貯めました。カーレーサーになるには、つまり人のお金でレースカーに乗れるようになるには、まず自分のお金で車を買って、レースに出て、実績を作らなければならないのです。
   1999年、35歳の時、ぼこぼこのフェラーリ(事故車)を750万円で買いました。そしてそれを自分のお金で直して、初めてレースに出ました。フェラーリだけが走るレースです。壊したら修理代は自分持ちだし(しかもフェラーリなので高い)、残りの250万円が尽きたら挑戦をやめなければなりません。ですから、最初のレースでいい成績、いや目立った活躍をしないと、どこからも声がかからず、後が続きません。
   レースが始まりました。最初のほうはほんとに怖かったですが、周りが行け行けーと言いますので、やけのやんばち後半は思い切ってアクセルをふかしてどんどん抜いてやりました。そしてなんと最初のレースで3位に入賞することができました。「キャンギャルレーサー井原慶子、いきなり3位!」とスポーツ新聞各紙にも取り上げられました。セーフティドライビングスクールで優秀なエンジニアの指導の下、毎日4時間走っていた成果です。
   その後、イギリスのレーシングスクールに半年留学して腕を磨き、なんとその年のフェラーリシリーズ最終戦で優勝することもできました。 その結果、世界のフェラーリレースの上位者を集めたイタリアの「フェラーリチャレンジワールドファイナルレース」に招待されました。自分のフェラーリをもって行ったレースは、まわり中からぶつけられて車がぼこぼこになるのもかまわず必死に運転し、120台中8位に入賞しました。そのおかげで、古城で行われた表彰式に招待されました。
   そこでなんと、あのシューマッハに会ったのです。この時とばかりに、私はなかなか優勝できないがどうしたら優勝できるのか聞いてみました。最初「君は三流の顔をしてるからいつまでも君は三流だ」と言われましたが、あとからアドバイスをくれました。監督や車やコースや仲間の愚痴を言ってるうちは三流だ、どんな環境にも順応して、どんな環境も自分のものにして、言葉と時間を共有して最高の結果にもっていくように自分で回りを引っ張っていかなければならない、変えていかなければならない。そうしないといつまでも一流にはなれないと言われ、目からうろこが落ちた気がしました。それは短期留学をしたイギリスのレーシングスクールの20才そこそこの世界各国の少年たちが、すべてはプロレーサーになるために、激しいトレーニングに堪えるだけでなく、嫌なコーチ、苦手なメカニックとも楽しそうに技術的会話をしてる姿が思いだされたからです。
   イタリアでのフェラーリチャレンジは8位にはなれましたが、悔しい点もたくさんあり、もっとやってやるぞ、やりたい、私はできるという意欲がわきました。    レース2年目。幸いに、そうやって目立ったおかげでスポンサーも付きイギリスのレースチームに入ることができました。フォーミュラ・ルノー・ブリティッシュシリーズ。しかし非常に田舎にある小さなチームで私よりずっと若い少年と一緒に技術を磨く日々でした。またその頃ソニーのノートPCが流行っていたので同じチームの若いレーサー仲間に、「アジアのリーダーであるインドや中国も、日本の技術にはかなわない」と言われビックリしました。私はずっとアジアのリーダーは日本だと思っていたからです。このような外国体験は現在非常に役立っています。常に過去の経験が次のステージで役に立つというのが私の人生のようです。
   レーサー3年目。次に行ったのはフランスのチームでF3シリーズを戦いました。そこは田舎なので、日本人があまりおらず肉屋の店主に窓に生卵を毎日ぶつけられるようないじめにもあいました。日本は有事の時に、お金しか出さないから嫌いだというのが理由らしかったです。しかし根気よく話に行ったり、なけなしのお金でお肉を買い、その料理法を聞いたりしてやっと打ち解けることができました。フランスでのトレーニングとレースは非常にきついものでした。でもそのおかげでかなり体力とレース能力が向上しました。レース参戦30人の中で女子は私1名でした。私もはじめて入賞することができました。まわりが皆大喜びしてくれた情景を忘れることができません。
   しかし、9.11でスポンサーの支援が得られなくなったので泣く泣く帰国しました。 日本ではある程度有名にはなっていましたが、なかなかスポンサーが見つかりません。やっと見つかって、アジアで戦うこととなりました。その結果国際フォーミュラーカーレースで世界初の女性レーサーとしての優勝をしたり、あこがれのマカオグランプリで表彰台にあがったりしました。    2004年。レースを始めて5年目。とうとう国際的なイギリスF3シリーズに参戦しました。ヨーロッパ各国を転戦します。ここでも女性は私1人。のちにF-1王者となるルイスハミルトンなF-1一歩手前のレーサーたちと毎回戦っていました(この時の仲間から7名もF-1レーサーになりました)。私は入賞を7回することができました。    翌年、国際イギリスF3の2シーズン目。何度か入賞できました。
   日本に帰国している時、講演会がもとで知り合って付き合うようになった恋人が、はるばる応援に来てくれた目の前でかなり激しいクラッシュも経験しました。車は滅茶苦茶、でも鍛えていたので体は何ともなかったです。    まわりからF-1に行く同僚も多くF-1が身近になってきました。私もF-1で走りたいという希望も出てきましたが、何年も男性と張り合ってきた結果、私の体はボロボロ、メンタルの病気になってしまいました。とりあえずここで帰国することにしました。    女性としてアジアから一人参加して、レース界において女性の地位をかなり上げたので、10年間ずっと見てくれたイギリス人マネージャーに「君一人の世代で最高峰までは無理だよ。歴史はそんなに早く動かない。パイオニアとして君のやるべきことはここまでで十分だよ。よくやったよ。欲を出しすぎると命を落とすぞ」と言ってもらえました。    あとは次の世代に任せることにして、心を癒しながら日本では子供に英語を教えました。子供には無限の可能性があります。毎日が楽しかったので数年で疲れていた気持ちも癒えていきました。    そうこうしているとき、2012年。なんとまた、レースの戻らないかというお話があり、私の心にまた火がつきました。
   もうこうなったら止められません。私はレースに戻ることにしました。しかしその時はもう普通の人に戻っていたので、大変でした。落ちた筋肉や持久力などの体力を1から作りなおしました。レーサーライセンスを返納していたので、また取り直しました。 参戦したルマンシリーズは、3人1チームで2時間走ったら4時間休む繰り返し。50チームあるので全員で150名、女子は私1人だけです。ここでも、けがをしないことや回復を早くすること、感情をコントロールすることなど男性にできない部分で頑張っていい成績を残すことができました。他にも多くのレースに出場して、いい成績を残すことができました。
   レース以外にもいろいろなお仕事のお誘いを、大学や行政からも、いただき何でも挑戦してみよう精神でやっておりました。 2018年、そのような私なりの活躍を見てくださっていた日産自動車から声がかかり、社外取締役に就任しました。月に1度くらいの出社でいいと思って引き受けましたが、それからすぐゴーン社長が捕まってしまいました。社内は大混乱で、内部にあまり関係していなかった社外取締役が中心となって、社内のガバナンスの見直しをすることになりました。大変な役目が突然回ってきました。日産は世界に3,000人の弁護士を雇っていて、毎日その報告書に目を通さねばなりません。毎日目が回るような忙しさになりました。時給で言うと100円くらいなものです。ただ、この忙しさはレースやトレーニングで経験していますし、体力には自信があり、語学も身についていたので何とか切り抜けることができました。
   日産という会社は、事件前の何十年も前からいろんな社員を採用してきました。ダイバーシティを実践していた先駆けです。いろんな人がいると摩擦が起こります。それを受け入れる苦労も大変ですが、その摩擦に皆が慣れてきます。その中でぜんぜん違う意見がでてきます。そこから様々な機能や様々なサービスの発想が生まれてきます。
   自動車産業は一つの大きなプラットフォームです。今後もここを中心に、世界中の様々な社員とともに、技術革新や環境問題を解決していかねばならないと思っています。本日はご清聴ありがとうございました。
 
 
 
     第2部の年末懇親会では、久しぶりの立食形式での開催でしたので、多数の方と懇親することができ皆さん喜んでおられました。
   懇親会の冒頭、西村彦四郎会長より次の様なご挨拶がありました。 「筆記具業界は高い技術力とアイデア力があり、世界に対して日本がこれほど圧倒的に力を持っている業界はそれほどないのではないか。
   世界の人口も私たちが会社に入った頃は50億人と言われていたが、今やなんと80億人である。しかも裕福になっている国が増えている。つまりこんなにマーケットが広がっているわけであります。
   私たちの活躍の場はますます世界に広がっているので、今後も十分高い目標をもってこの業界を成長させていきましょう!」と会員みなの士気を挙げ、万雷の拍手を浴びていました。
 
 
 西村会長ご挨拶    年末懇親会の様子
 

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